永訣の朝、
宮沢賢治の妹は、
雨雪 や 松の葉 をとって来てと兄に頼むのだが、
それは、
遺された兄が何もしてやれなかったと後で悔やむ事の無いようにという、
逝く者の純粋な優しさであった。


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僕の家まで歩く事を目標にリハビリを続けていた僕にとって兄のような友のメールは、
「 君の家に着いたらコーヒーを飲ませてくれ。 」と続いている。


永訣の朝の、宮沢賢治の妹のような優しさが、ある。


僕は呑気に大切な友の回復を信じて待ち、
その時に飲むであろう一杯のコーヒーと、
交わすであろう懐かしい会話を楽しみにしていただけだ。


永訣の朝の、宮沢賢治のような優しさが、僕には無かった。


だから僕は今、悔やみ、痛んでいるのだ。
この痛みは、悼みには出来ていないのだ。
悼みには出来ず、傷みになる事を覚悟しなくてはならないのだ。


一杯のコーヒーは、
僕が飲ませるのではなく、
僕が飲ませてもらうべきであったのだ。


顔を見たい、会いたいと思う事が幾度もあった。
その時に躊躇せず、会いに行くべきであったのだ。


雨雪をとりに、
松の葉をとりに、
冬の道を走った宮沢賢治のような優しさが欠けていた。
想う気持ち、
思いやる気持ちが僕には無かった。


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本当の優しさを持ちたい・・・。


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五月晴れの空が曇って見えやがる・・・。