今、「敗れざる君たちへ」を読み返しつつ思うこと。

この時期にまた、あらためて僕は読み返すんだよ・・・。
故・阿久悠さんが書いた詩、「敗れざる君たちへ」を・・・。
何度も何度もくりかえして僕は読んでいるのだけれど、
読み返すたびに深く見えてくる何かがある・・・。
阿久さんが詩に込めた心が、そう、より深く見えてくるんだ・・・。


この詩は、阿久悠さんがすべての野球少年の誇りを慈しみ、抱きしめ、
そして守り抜こうと決意した、心の奥底からの叫びなのだと思えてならない・・・。


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かつて、「松井秀喜に対しての五連続敬遠」といった出来事があった・・・。


とてもとても悲しい出来事であった・・・。
ひたすらに強く深く、ただ悲しい出来事であった・・・。


その出来事に対し、是か非かを問われれば僕は、
迷う事なく非だと答えるのだけれど、
今、あえてその出来事には触れないでおこう・・・。


ただ、その出来事があった夜に、
この詩は生まれたのだ・・・。


野球を信じ抜こうとする少年たちの側に立ち、
その彼らの誇りを慈しみ、抱きしめ、守ろうと決意した詩は生まれたのだ・・・。


その出来事の是か非かは、ね、
今もなおあらゆる場所で、議論の俎上に上がっているだろうと思う・・・。
だが、議論の中の、どんなにか考え抜かれた意見でさえも、
この詩の前では、ね、
すべて色褪せて見えてしまうだろう・・・。


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5×4=20


最後の、20球目をしっかりとバットを構えて見送った少年は、
静かにそっとバットを置き、1塁に立つ・・・。


彼の、穏やかで激しく静かな「怒り」と「哀しみ」を、


阿久さんは詩っているのだけれど、


今日、あらためて読み返した僕は、


そこに込められた「もうひとつの哀しみ」に気付いた・・・。


その、「もうひとつの哀しみ」は、
行間の中に阿久さんが込めた、「本当に言いたかった事」なのではないだろうかと気付いた・・・。


ヴェールの向こうの日差しの中から、ね、
透けて見えるように気付いたんだよ・・・。


その、「もうひとつの哀しみ」に、僕は・・・。


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無論、「もうひとつの哀しみ」とは、
その20球を投げさせられた少年の痛みだ・・・。


1球を投げるたびに、
罵声を浴びながら彼は、
その時に何を考えていたのであろうかと思うと、悲しい・・・。


幼い頃、一緒にキャッチボールをした父親の顔だったのではないか?


彼だってまた、間違いなく、
「野球に魅せられた少年」だったはずなのだから・・・。


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「敗れざる君たちへ」の中で、ね、
阿久さんは松井少年に向けてだけのエールを贈っているのではない・・・。
投手であった少年に向けても、そう、
その行間の中でエールを贈っているのだ・・・。


「敗れざる君へ」ではない・・・。


「敗れざる君たちへ」と書いた詩人の魂に触れ、


僕は今、震えるような感動を得るのだ・・・。


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小学生も中学生も高校生も・・・。


今、魅せられた野球に夢中になって取り組むすべての少年たちよ、


大人ってね、ズルイものだ・・・。
卑劣で、汚いものだ・・・。


でもね、信じていてほしい・・・。
そして、忘れないでいてほしい・・・。


その大人たちの中にだってさ、
信じるに値する人たちだっている事を・・・。


詩人の目で、心で、
君をずっと見守り続けているんだって事を・・・。


なっ、「敗れざる君たち」よ・・・。


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カキーン!ってさ、
そのワクワクする音を信じていようぜ・・・。